話は8月下旬にさかのぼります。僕が中村航さんと一緒に、北軽井沢にある「長嶋山荘」を訪れていたときのことです。この山荘があるところは大学村といって、古くから文学者、作曲家の創作の場となっていました。歩いてみると確かに、いわゆる「別荘地」とは違ったちょっと独特な雰囲気があるようです(敷地が碁盤の目のように整然と区画されているところも面白い)。また、たくさんの自然が残されていて、とりわけ長嶋さんが仕事場を構えるこの山荘には、自然の中の小さな生命体、悠久の時を超えた原始の息吹とともに、ほのかに危険な香りを漂わせるあの油断ならぬクリーチャー、そう、「虫」がいーっぱい、います。その様子はこちら、長嶋さんの夏季限定ブログ、ムシバムに詳しいのですが(接写もあります。虫が苦手な方はくれぐれもご注意を)、まあ、慣れればなんということはないですね。なんかこう、あんまり「虫が出る!」とか書くと、おいおいそりゃ一体どんなところなんだと、そういうマイナスイメージばかりが膨らみそうですが、みなさんが想像するほどではないと思います。アシナガグモが膝元をつつつと登ってきても、そういうことが何度かあるうちに気にも留めなくなって、ふと彼の「よっこいしょ、ちょっと通りますよ…」という心の声が聴こえてきたりするものなのです(言いすぎか…)。
とにかく、そういう楽しい山荘を僕は今年も訪ねたのでした。みんなで音楽をやったり、ビールを飲みながらすき焼きを食べたり、女の子の話をしたり、おもむろに3人麻雀を始めたりと、いくぶん学生ノリな我々ではありましたが、午前1時を回った頃になるといよいよビールが底を尽いてきました。「丈くんはけっこう飲むんだったね。うん。足りなかったね」僕はよく思うのですが、長嶋さんの喋り方には、不思議なトーンがあります。独り言のようでもあるし、不特定多数に言うようでもある。この感じ、なんだっけなあと以前から思っていたのですが、このとき僕は気づいたのでした。そうだ、学校の先生だ。そんな僕の思いをよそに、淡々と、しかしのんびり説明を続ける長嶋先生。「ここから一番近いコンビニまで歩いて25分かかる」…うーん。やっぱり。まるで「このときx座標の値は自然数になる」と言っているかのようなトーンだ。不思議だなあ。
往復50分、買い物してたら1時間以上だね…そんな話をしながら、しばらくダラダラしていた我々は結局「肝試し」という名の買い出しに出ることになりました。というのも、一歩外に出れば街灯の類は一切ない林道、一寸先も見えない暗闇がどこまでも続いているのです。それぞれ懐中電灯を手にし、しんとした真っ暗闇の中、僕は中村さんと長嶋さんのあとに続きます。ざりっ、ざりっ、というダートを踏む足音が、まるで耳元で聴こえているかのような静けさです。足下を照らしていた明かりを前方に向けると、いま歩いている道が昼間見るよりもずっと狭く感じられます。「ほんとに真っ暗だなあ」そんなようなことを僕は呟いていたと思います。べつに言わなくたっていいような、当たり前の感想なんですけども。長嶋さんは懐中電灯を気まぐれに切ったりつけたりして、中村さんはといえば、野生動物でも探しているみたいに光をあっちこっちに向けてみたりしている。怖くないんだろうか、この人たちは。
「試しにみんな、懐中電灯を切ってみよう」長嶋さんがふいに恐ろしいことを言い出します。そして、うわあ、いやだなと思っている僕の隣で、即消灯する中村先生。うわあああ(裏切り者おおお!)。しかしこの状況で切らぬわけには、と覚悟を決め消灯すると…そこには、見たことのない世界が広がっていました。目を閉じても開いても、何の変化もない完全な暗闇、その中でざりっ、ざりっ、という我々の足音だけがただ、響いているのです。奇妙な感覚でした。ものすごく怖いけど、でも何か惹き付けられるものがある。「明かりをつけたら、ひとり減ってたりして」僕が言ってみると、「ひとり増えてたりしてね」と(顔は見えないが明らかに笑顔で)返す中村さん。だめだ…そんなこと考えると怖すぎる。すると、ぱっと足下が明るくなって「怖いね、つけよう」と長嶋さん。うむ。どんどんつけよう。
電波の入るキャベツ畑(『ジャージの二人』参照)の脇を抜けると、学校が見えました。歩いている道はどうやら校庭に面していて、そのあたりだけ若干の明かりが灯っています。そのとき校庭の方から、咳払いがひとつ響いてきました。声の感じは、女の子のようでした。「いま何か聞こえたね」長嶋さんが言うと、「咳みたいだったね」と中村さん。3人とも無言のまましばらく歩いて、校庭のすぐそばまでやって来ました。すると、さっきの咳払いがもう一度聞こえてきます。こんな時間に、女の子が校庭で一体なにをしているんだろう。我々はなんとなく、校庭に入っていきました。運動会で出るようなテントがいくつか設置してありました。その中には長テーブルが置いてあります。なにやら、調理器具のようなものも見えました。人の姿はありません。長嶋さんはひとりでずんずん奥へ入っていきます。「誰かいますかー」しかし返事も、人の気配もないようでした。ひんやりした空気を伝わって僕のところに届くのは、遠くから聞こえる足音だけ、ここもあの林道と同じように、底なしに真っ黒な何かがあらゆるものを眠らせているのです。なんだか、じっとしているのも落ち着かない気分でした。それでゆっくり、長嶋さんを遠巻きに追って長テーブルのあたりまで来たとき、おや、そういえばと僕は思いました。中村さんはどこへ行ったんだろう。
そのとき僕のすぐ後ろで、かすかに土を踏む音がしました。ああなんだ、後ろにいたんだ。そう思って僕が振り返った、そのときでした。そこにはなんと、目を大きく見開いて、今にも僕の腕をつかもうとしている青ざめた少女が…!
というのは嘘で、実はなーんにもありませんでした。そういうわけで、あの咳払いが何だったのかは今もって全然わからないのです。なんかこう、どこかの家からうまい具合に音が反射してきたのかもしれませんね。学校の校舎のような大きな建物というのは実際、驚くほど音を反射するものです。フジロックの「サイレント・ブリーズ」でアンプラグドをやったときにも、ロッジと「デイ・ドリーミング」のブースによる反射で、思っていたよりもずっと演奏しやすかったことを覚えています。それから日比谷の野音でも、もし仮にあの周囲のビル群がなくなったとしたら音はだいぶ変わってくると思います。まあそんなウンチクはいいとして、えーと。書きたかった話をようやく書くことができて、個人的にはまあよかったかなと、思っております(たいした話じゃないんですけども)。ちなみに話の前後関係で言うと、この後、我々は軍人将棋に突入していったわけです。朝まで。
そんな元気な長嶋先生ですが、ブルボン小林名義で刊行した著書『ぐっとくる題名』が好評です。聞くところによるとこの本、渋谷ブックファーストで、新書売り上げランキングをじわじわ登りつめ、ついに1位を記録したとか。すごいですね。長嶋さんの洞察力には何か、人を感化させるものがあります。かくいう僕も『サイドカーに犬』に刺激を受けた者のひとりなのですが、そんな鋭い視点に触れてみたいという方には一読をおすすめします。
もうひとりの元気な先生、中村さんも1年ぶりに新刊を出すようです。『絶対、最強の恋のうた』ってすごいタイトルですが、僕の予想では、これはただの恋愛小説ではないんじゃないかと思います。ただの予想なので、わかりませんけども。