ツアーの合間ですが、ちょっと時間ができたのでHEATWAVEのライブを観てきました。かっこよかったなあ。あのロック・フィーリングは、僕には出せない。いちおう僕もロックをやっている人として、自分なりのロック表現というのはあるわけだけども・・・HEATWAVEが出す音を聴いて、あ、これは僕の中にはかつてなかったものだ、という感じがありました。でも、体はちゃんと喜んでいる。全然ちがうのに共振するっていうのは不思議なものですけれど。いや、全然ちがうからこそ共振するのか。
思うに、ロックというのはやっぱり、ひとつしかないんです。たとえば人の優しさというものが、ひとつしかないように。でもそれのつかまえ方、受けとめ方、表現の仕方はさまざまにあって、ロックに深く身を投じれば投じるほど、その「人間の違い」というのが明らかになってくる。「その人」が前面に出てくる、あるいは「その人」がもうロックになってしまう。
帰り道、ぼんやりと考えました。すぐれた表現には、必ず理由があるのだと。街に放り出されてしまえばわれわれは似たり寄ったりで、一面的にはみな、おんなじようなものです。あらゆる色の絵の具を混ぜ合わせれば黒になり、あらゆる種類の人が組織をつくれば単一カラーの常識が生まれます。その単色を社会とか世界だとするならば、表現とはそこに自分の色を持ち込み、彩ろうとすることです。誰かが用意してくれた視点で、考え方で、言葉で、すべて事足りるということであればまあそれでいいのかもしれないけれど、でもそう思わない人もたくさんいて、そういう人は表現に向かうのだと思います。満足できない、ということを理由に。
そうして世界とコミットしようとするとき、たったひとりの人間が持ちうる武器は「その人がその人であるという動かしがたい部分」しかないんじゃないだろうか?
だとしたら、何十年も何かを表現し続けることって、すごく覚悟がいることだ。
HEATWAVEは来年で結成30周年だそうですが(僕はそのころ1歳だ・・・)、僕が今日聴いた音は、そんなにも長い間ロックし続けてきた人たちが出した音だったんだな。あらためて思うと、やっぱり、観に行ってよかった。